「今日は何を読んでいるんだ?」
  本を覗き込む彼女の前に立って、刹那は挨拶をせずにそんなことを尋ねた。つるつるの紙には星座が丁寧に描かれている。うしかい座のアルクトゥルス、おとめ座のスピカ、しし座のデネボラで春の大三角形、りょうけん座のコル・カロリを加えれば春のダイヤモンドだ。
「ついてる」
  ベンチから刹那を見上げていたティエリアも同様に、最初に出てきた言葉は挨拶ではなかった。図鑑に置かれていた指をそっとのばして、彼の髪へとふれる。そこからゆっくりと離れていったティエリアの指先には、いつの間にかついていたらしい桜の花びらがあるのだった。彼女はそれをひらりと落としながらそっと微笑む。
「刹那、おはよう」

# 四月 - なぎこ

 日傘のつくりだした陰の下で、ティエリアは不自然にぶっきらぼうだった。隣で同じ顔のつくりをしたリジェネがにこにこと笑っているので、彼女のそのどこか困惑しているようにも思える無表情は、刹那の意識を尚更にひきつける。自分を映しだしているふたつの赤い瞳が、なぜ、と問いかけているみたいだった。どうしてこんなところにいるんだ、と、かたい声が聞こえてきそうな気さえする。
  どうしてこんなところにいるのだろう。刹那は考えてみるけれど、その疑問の答えになるような理由や言い訳は結局のところ見つかることなどないのだ。
「とりあえずさ、お茶でもどうかな。喉渇いちゃった。今日すごく暑いんだもの」
  ふたりの返事を待たずに、リジェネは彼の背を軽く押して先へと促した。誘われるままに、曖昧に頷いて――ティエリアは黙りこくったままだったけれど――三人は歩きだす。さっきまで、まるで対岸の向こうを観察しているみたいにひとつの境界で隔たれていた、街にあふれる人々の中へと。紛れて、一緒くたになって、そうして三人も彼らと同様に、誰でもない誰かになってゆく。

# 五月 - 浜田

 ドアをあけると、いつもよりいくらかボリュームを失った刹那の黒髪がそこにあって、ティエリアは目を丸くした。
「びしょ濡れじゃないか」
「外は雨だからな」
「知っている。なんでかっぱを着ないんだ」
  あきれた声で言いながら、廊下をすこし戻って、脱衣所のラックから適当なバスタオルを一枚つかむと、再び玄関へと向かう。
「あれはあまり好きじゃない」
  タオルを受け取ってわしわしと頭を拭いながら平然とそうこたえる刹那に、「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない。風邪をひいたらどうするんだ」、と、あきれかえってティエリアが言った。刹那がタオルの下から顔をのぞかせる。
「俺は風邪ひかない」
「うそをつくな。風邪をひかない人間なんていない」

# 六月 - 浜田

「夢を思い出したんだ」
  唐突な独白に、刹那はそれがティエリアの声なのだと認識するまでに少しの時間を必要とした。彼女が発した言葉は、まるで記号のように彼の聴覚を通して記憶の中へと無機質に並べられてゆく。
  はっとして、刹那は隣をみる。彼女はまだクッションのよくきいた椅子の上に寝そべったままで、まっすぐに真上をみつめている。夢とは、一体どちらの意味を持つ夢のことを指しているのだろうか、と刹那は考えた。「…眠っている時にみる夢?」「そう」。そうか、と彼は頷く。

# 七月 - 浜田

 どうやら刹那も素直に宿題を続ける気はないようで、ぼんやりと窓の外を眺めていた。何もしない時間がふたりの上をただ過ぎていく。
「夏休みというものもわりかし退屈だ」
「そんなに早く学校がはじまってほしいのか?」
「そういうわけじゃないんだ。だけど、目的なくただ日々を過ごしているのは少しだけ怖い気がする」
「贅沢な悩みだな」
  刹那はそう言って笑った。だけれども。
  自分の家以外の場所で、こうして何もしないで過ごすということは、一年前のティエリアには考えられないことだった。他人に何かを許すということ。そして許されるということ。それは少しだけ狂気に似ているような気がする。

# 八月 - なぎこ

「おはよティエリア。ねえ、今日って宿題ないよね?」
「まずは私を解放してくれ。そして宿題というものは学校へ到着するまでにやってくるものだ」
  ティエリアの説教に反するようにして、ネーナは抱きしめる力を更に強めていった。朝からティエリアに怒られちゃったあ。うふふ、と楽しそうに笑う彼女の世界を一瞬で凍らせたのは、後ろの席のルイスの声だった。
「宿題あるよ。スミルノフ先生の」
  そう言ったルイスのそう言うとルイスは作業に戻るのだった。自分自身もそれを忘れてしまったらしく、いつの間にかフェルト・グレイスにプリントを借りたらしい。答案を写し続ける彼女の横でフェルトは眉をさげながらにっこりと微笑んでいる。
「…ねえティエリア。ネーナね、お願いがあるんだけど」
「宿題なら見せない」

# 十月 - なぎこ

 そうやっていつものように名前を呼び合うと、ティエリアは机の上でうつぶせになった。その横に座った刹那の方を向いて、じいっと彼を見上げている。刹那も目線を逸らすことなく、その赤い瞳を見つめ返した。さらりとした紫色の髪は、彼女の頬に薄い影をつくっている。
「ここにいたんだな。いつから?」
「片付けが終わってから」
「ルイス・ハレヴィが探していた」
「…頼むからここをあばかないでくれ」
  はあ、とため息をついて、ティエリアは視線を刹那からそらす。すっかり嫌気のさした顔をして、彼女は言った。
「外は人が多くて疲れる」

# 十一月 - なぎこ

「…他に、もっと遠い場所に、たくさんの仲間がいることを知ったら、どう思うのだろう」
  そこへ行って、仲間と一緒にいたいと思うのだろうか。つくりもののちっぽけなホームを抜け出して。
  ティエリアがそこまで口に出すことはなかったけれど、可能性のひとつとして、刹那もやはり彼女と似たようなことを考えているのだった。でも彼は何も答えないままでいる。答えたくないのか、答えられないのか、一体何を思って口を噤んだままでいるのかティエリアには分らないのだけれど。でも彼の口から彼の言葉が出てこないことを、彼女はどこかで少し安心しているのだった。自分の中にある、でもそれでいて自分自身とはほとんど切り離され独立してしまっている何かが、沈黙にすっかり身を委ねて揺蕩っている。

# 十二月 - 浜田

「ここから、君を見ていた」
  ぽつりと、彼女のつぶやいた言葉は刹那の耳へと届けられた。視線を窓の外から横に立つティエリアに移す。確かにそこに存在する彼女は、本当に、たった一歩近付けば触れられるほどすぐ隣に立っているはずなのに、まるで触れることなどできない永久の距離があるように感じられた。
「待っている間は、ここから、見ていたんだよ」

# 二月 - なぎこ

「クリスティナ・シエラに」
  花束を抱えている理由を尋ねられる前に、ティエリアは口を開いた。卒業式が終了し、在校生の帰宅が許可されてからすでに三十分程度は経過していたように思う。ふたりが落ち合う約束をしたのは学校の屋上だった。刹那が重いドアを開けると、ティエリアは花束を抱えて、フェンスの前に立ったまま地上を見つめている。
「フェルトと一緒に、花を贈ったんだ。そしたら向こうも私たちに用意していた」

# 三月 - なぎこ